放浪記4-ヨコハマアパートメントについて-

ヨコハマアパートメントは自分が今まで生きてきた中で最も親しい建築である。

自分はこの建築の姿を建つ前から知っていたし、設計した西田さんも中川さんも知っていたし、今在る敷地が更地であった状態を経験していたし、上棟に感動したし、仮設資材で囲われた姿も見たし、それが外された姿も見たし、それらと平行して完成直前内覧会を企画したし、完成してからも友人の永田が住んでいたので度々飲み会や打ち合わせに訪れたし、住民会議にも何度か出たし、同じく住民のユミィ氏と写真展を開催したし、模型も極寒ピロティで作ったし、なんと今は実際に住んでいる。

私にとってこの建物は実感そのものなのだ。

普段設計課題や雑誌で見る概念めいた情報は、自分の実感からは遠く、ここを経験するまでは正直どういうものが実感なのか、良くわからなかったし、建築家が設計する意義もうまく見いだせていなかった。

よく課題で提案していた「流動的な空間」、「最小限のプライベートスペースと最大限の共有空間」という構成、盲目的に認めていた「多様性」のどれもがこの建物では意図されていて(たぶん)、私は初めて実際の生活の中にそれらを取り込むことを経験したのだ。

そのどれもが自分が実際に今まで住んでいた普通の1Kアパートにはなかったので、当然ながらその違いに戸惑ったというか、「流動的な空間」だの「共有空間」だの私の、今まで凝り固まった合理主義概念からは「めんどくさい」と認定されることが多々あった。課題でさんざん設計したにも関わらず、である。

しかし、その「めんどくさい」を超える設計者の「切実な努力」が至る処で見受けられたことと、「流動的な空間」「最小限のプライベートスペースと最大限の共有空間」などの建築言語に隠された新しい価値観を享受できたことが自分にこの「建築」を実感させてくれた。

上部に在る最低限の居住スペースには、サッシを隠した大きな窓から隣の家の屋根が切り取られるし、手すりをなるべく細くしたテラスは開放的だし、ちゃんと水道とお風呂と洗濯機置き場とトイレがある。基本的にはここだけでも生活は成り立つことが、生活する心に余裕を生んでいる。

それに加えて、である。あの5m天井のピロティと三角形の柱空間がそれに加えてあるのだ。

言うまでもなくピロティは共有スペースとして「適当に放任される」ことで豊かに機能し、たまには広い空間でPC作業しようだとか、友人がたくさんきたからパーティはピロティでやろうとか、展示やりたいからやっちゃおうとか、「自然と主体的に選択して」できるし、何よりも大きな玄関として住人を迎え入れてくれる。半外部だが、床暖房が入っているし外部電源がたくさんあるのでヒーターも何台も置けるから冬でも一応過ごせる。

そのピロティを成立させている三角形の柱には、室外機が入っていたり、倉庫に使ったり、作業室にしたり、共有トイレが入っていたり、共有冷蔵庫があったり、裏側からもドアがついていてそこは納戸になっていたりと、都合が悪いものも、良く使うものも、使うための家具も、好きなものを詰め込める。

つまるところ、基本的な今までの価値観を踏襲した室内空間をベースにしているから、ピロティやテラスや階段や三角柱の中を自由に、創造的に使えるのだ。しかも自然とそれが出来る。もう一つ、その自由さを支えているのが、場所の名前をつけていない、というか場所の名前が機能の名前ではないということだ。だから本当に自由に、空間と向きあって選択的に居場所と機能を見つけながら生活することが出来るのである。一つの場所で複数の出来事が起こる。それが至る所で。

この状況はどう考えても豊かだ。

私は、豊かな生活を提供する職業を全うしているオンデザインに、建築をやっていく勇気をもらっているのだ。恩返しをいつかしたい。

ということで、放浪記の最後とします。また適当に書きます。かしこ。

403 辻