広場、あるいは庭としての場所

こんにちは。

先日学生たちとお邪魔した小形です。
ヨコハマアパートメントでは、初めての場所にもかかわらず、くつろいだ楽しい時間を過ごすことができました。ありがとうございました。

お話をしている中で、西田さんは「広場」と説明されていましたが、私は心地よい庭先にお邪魔させていただいているような印象を受けていました。誰かの家の庭先、家の外であるにもかかわらず、内部から連続する家の一部でもあり、そしてまた通りや街の一部としてもあるような場所。同時に、この一軒の家に4人(組)の個人が住み、それぞれが自分の居間のように庭を使い、そしてお互いにシェアしている。そんな多様性を許容する場所としての「庭」というイメージです。

きっと、勝手に感じてしまっていたくつろぎ感は、この多様性に由来するのかもしれません。

随分前になりますが、私はロンドンで一軒のフラットを多国籍な5人でシェアして住んでいました。生活時間も習慣も違う5人は、それぞれ個室を持つものの、キッチンやバスルーム、居間は共用で、それをなんとなくお互いに融通しながら、一緒に過ごしたり、あるいは閉じこもったりしながら暮らしていました。大きな居間でぽつんと2人でTVをボーっと見ていたりしたということが、意外と鮮明な思い出になっています。今思えば、そこには、明文化されていないのもかかわらず、ルールや秩序というものがあったように思うし、気遣いや配慮というものも、お互いを尊重するという意味でなされていたんだと思います。

規則ではないんだけれど、個人がきちんと個人でいながら、同時に一緒に暮らすための秩序や配慮のようなもの、もしかしたらこれを「文化」というのかもしれませんが、そのようなものがロンドンのフラットにはありました。

ヨコハマアパートメントにも、これと似たようなものを感じました。それで、「広場」を居間のような感じとか、「庭」とか表現していたように思います。そして、この感覚を通りや街に向かっても押し広げている。そんな試みなのかもしれませんね。あるいは周辺の建て込んだ敷地の状況をみると、元々そのような生活習慣があった場所なのかも知れません。それを明らかにしようとした試みなのでしょうか。

もちろん、このような印象を受けるのは、三角形の壁柱やそれにまとわりつく階段、壁や床の仕上げ、天井の高さや透明なカーテンの扱いなど、建築の構成の精確さによることは、十分理解できました。

この場所を建築の構成という視点からみると、「回り舞台」のようにも思えました。住まいの一部でありながら、あるときは街の一部となる、それぞれの登場人物のための「回り舞台」としての「庭」ということもできそうです。

随分と長文になってしまいました。
建物をつくるだけではなく、これをどのように成長させ、あるいはなじませていくのかということにまで、意識的に仕掛けていく西田さん/オンデザインのスタンスに共感を覚えています。またいつかお邪魔させてください。

それでは。